一本松 題字

1999.7.7   第8号   編集発行 片野尾公民館・村おこし会

 

ふるさと親睦交流会に来てくらんしやぁ〜

 

 公民館部長

          三國屋 陽一(源四郎)

 片野尾出身の皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
 梅雨も半ばに入り、集中豪雨の出ているところや、こちら佐渡では、はっきりしない日々が続いておりますが、皆さま方にはお元気でしょうか。いつも公民館活動に特に私たちが最も力を入れている行事の一つ・8月14日・15日の盆踊り大会に毎年ご支援・ご協力いただき感謝申し上げます。
 出身の皆さまには、毎年、または、数年に一度の故里帰省ということで、色々な楽しみを思い描いておいでのことと思いますが、私たち役員がそれに十分に応えてきたかといえば、至らなかった面もあったかと思います。今年は、そのような反省の上にたって、下記のとおり初めての親睦交流会の計画を立ててみました。
 大勢の皆さんが参加されますようお待ちしております。

 

 交流会はこんなことで

           記

  1. 期日     8月15日
  2. 時間     午後5時から
  3. 場所     公民館(人数により屋外に会場変更の可能性あり)
  4. 会費     男性  千円
    女性  5百円
  5. 内容     ビール、酒飲み放題・つまみ、折り詰め、さしみ等ほか
  6. 申込み    準備の都合上、同封のはがきにて申し込んでください。
             5人まで出席者の欄を用意しましたが、足りない分については適宜追加記入してください。
  7. 申込締切  7月末日消印有効
  8. 盆踊大会  午後7時半から公民館前広場で行います。
    昔を思い出し、仮装大会も計画、豪華商品も用意、今世紀最後のビデオ撮影をしますので、そちらへも記念に全員参加してください。

等の計画で準備を進めております。
 前回、第6号・ふるさと便りでもお知らせのとおり、公民館役員は言うに及ばず、今年は21村おこし会との共催、すなわち村をあげて運営することになっております。当日は、お墓参りを早めに済ませ、家族共々・一人でも多くの皆さまからおいでいただき、昔のこと、将来のこと、小さいころ朱鷺が群れをなして飛んでいたこと等、また、故里に期待することなどについての話し合いなどをしていただきたく、お待ち申し上げております。
 家族の皆さんは、帰省される方々がふるって参加されるよう、特にご配慮ください。
 また、できればこと催しを機会に、お墓参りに多くの人が帰るよう、仲立ちについてもよろしくお願いします。

 

片野尾子供歌舞伎発足の思い出

 

    片野尾小学校 元校長   高橋 丈夫

 昭和55.年度から小学校に「ゆとりの時間」の活動が、週一時間実施されることになりました。地域や学校の特色を生かした活動により、児童の人間性を豊かにすることが狙いでありました。
 当時の片野尾小学校の子供たちは、おとなしくて、素直でいい子供たちなのですが、全体的には積極性に欠けているように思われました。
 そこで、職員で知恵を出し合った結果、伝統ある片野尾歌舞伎を子供に伝承していただき、それを演ずることで「発表力や表現力が身につき、それが自信となって積極性が出てきたら」ということで歌舞伎のご指導をお願いすることになったわけであります。
 とりあえず、歌舞伎保存会の宇治藤一さんにお願いし、週一回ずつの練習が始まりました。
 当たり前のことですが、歌舞伎のせりふにはまったく馴染みのない子供たちは、その意味も分からないまま丸暗記するほかなく大変だったことと思います。
 秋も深まり、発表会のことも考えなければなりません。渡辺公民館長さんにお願いし、保存会の皆さん全員からご指導いただくことになりました。演目も「絵本太閤記・尼ヶ崎庵室の場」と「一谷嫩軍記・須磨の浦の場」とに決まり、練習回数も週三回に増えました。
 年が改まり、発表会の期日が3月19日と決まり、練習も日中だけでは間に合わず、夜は公民館で特訓を重ねました。本当に、手に手を取ってのご指導にも熱が入りました。
 お蔭様で、当日の発表会は大成功でございました。NHK、TNNの各テレビ局、新聞各紙とマスコミにも大きく取り上げられました。
 学校では、歌舞伎の良さに引かれて計画はしたものの、予算は皆無に等しく、発表会に当たっては保存会にすべてオンブにダッコでございました。
 当時の関係者の方々に、改めまして厚くお礼申し上げ、既に故人になられた方には、心からご冥福をお祈りいたします。

 ”片野尾歌舞伎万歳”

 

佐渡新スポット

 

     日本スキューバ潜水株式会社 課長    正司 正

 佐渡は、地域活性化の一つとして、スキューバダイビングの受け入れを各地で行っている。
 各集落にはそれぞれの特徴があり、訪れるダイバー達を楽しませてくれる。
 今年から、ダイバーの受け入れを始めた片野尾の海について、島外から訪れるダイバーをご案内する立場で片野尾の海を紹介する。
 ボートダイビングするポイント2ヶ所を設定した。学校沖の瀬は大小の岩が広い範囲にあり、スズメダイやメバル等の小魚がたくさん見られる。また、周囲には砂地に住む生き物も見られ、水中写真を撮る被写体には事を欠かさない。
 次に、風島を紹介する。一枚岩が水面から水深20メートルの海底まで崖のように落ち込んでいる。巨岩が周辺に点在し、地形を堪能することができる。片野尾の海はまだ未知の世界に満ちあふれている。片野尾の皆さんの快い受け入れに、協力していきたいと思っている。

 

遠い空から

 

 ふるさと

           新穂片野尾会 会長   池野 清子(清左ェ門出)

 片野尾の皆様、片野尾出身の皆様、お元気ですか。
 いつもご親切に、公民館だよりをお送りいただきまして、ありがとうございます。一本松が届きますと、何をやめても懐かしく読ませてもらっております。厚く御礼申し上げます。
 私も故里を後にして、もはや40年近くになりますが、自分の生まれ故郷が懐かしく、愛おしく、年に何回も実家にお邪魔しております。行く度々に集落の皆様の温かい人情に包まれ、いつも心が安らんで帰ることが出来、本当にありがたく感謝しております。
 片野尾も昔と違い、道路も広くなり、家並みもきれいで、とてもうれしく思っております。
 故里はいくつになっても何ともいえない安心感で一杯でございます。
 先日も片野尾へ行き、いろいろ見ますと、海がだんだん埋め立てられ、道路拡幅等で大岩が消え、小さい頃良く泳いでたどり着いた岩の懐かしい思い出も、時代の流れと共になくなるのだということを感じております。

 新穂村へは、私はじめ片野尾から嫁いだ人達が8名おります。やっぱり故里が同じということは良いものです。そこで年一回、片野尾会を開き、色々と昔の事を話し合い、励まし合い助け合って、やっぱり故里は良いなぁ・・と語っております。
 私たちも、故里・片野尾の顔に傷をつけないよう、みんなでしっかり団結して、幸せに暮らしております。どうか、愛する片野尾の皆様、いついつまでも、お体に気をつけてお暮らしくださいませ。
 故里の益々のご発展と、ご多幸をお祈りいたしております。
 国仲へおいでの際は、どうかお立ち寄りくださいませ。
 いつもありがとうございます。

【報告】

 原稿をお願いしてから二度ほど、佐渡病院へお見舞いや何やらで行く機会がありました。通り道なのでちょっと寄って、直接お願いしようと、一度目は、呼んでも誰もいません。ちょうど玄関に連絡黒板がありましたので中へ入り、お願いの旨、メモして帰りました。次回の時も、呼んでも返事がありません。連絡黒板には前の私のメモがそのまま残っています。裏の田んぼにいるかも?と、でも姿はありません。良く見ると家の中に人影があります。手で合図をすると、出て来られたのはおばあちゃんでした。明るいおばあちゃんで「片野尾のもん」と言うだけで色々なことを話してくれました。清子姉さんが、どんなに家族を・周りの人々を・そして新穂村の一員として・明るい性格で・どんなに立派な・手本となるような役割を果たしているかが、手に取るように伝わってきました。
 極めつけの話を二つ。

  1. 家の母さんは一時でも休んでいることがない。誰かに何かを頼まれると、断れずに手伝いに行く。少し体を休めないと体がどうかなってしまわないか心配だ。
    この秋にある、村会議員選挙に出てくれるよう、あちこちから話があるが、小木町へ嫁いだ水津の若い姉さんが、町会議員に当選して頑張っとるちゅうが、いいようで、家の母さんだと、なお忙しくなるようなのが心配だっちゃぁ〜。
  2. 家の母さんは、ちょっとそこらには居ない良い嫁さんでの〜ぅ。父さんは先にいってもいいけも、母さんが、私より先にいくようだと、おらぁ生きて行けんちゃぁ〜と屈託ない顔で笑いました。

 義母さんから、こんな言葉をもらう清子姉さん、本当に頑張ってきたんだなぁ〜。と、ひとりでに涙が出てきます。そう言えば、両津あたりで「片野尾あたりに嫁さんに出るような娘さんがおらんかえ、片野尾あたりのもんは人がいいしのぉ〜」と良く言われます。まさしく清子姉さんは、それを地でいっていたのです。このようなお陰で、帰りのハンドルの軽いこと。
 先輩、本当にありがとう。

 

 実家をよろしくたのみます。

           新潟市  小黒 ヤ子(柳屋出)

 公民館だより「一本松」を毎回送っていただき、ありがとうございます。小さな新聞でも作るとなると、大変なことだと思います。本当に頭の下がる思いで、喜んで読ませてもらっています。
 私の実家・柳屋の兄が交通事故で入院生活に入ってから、早一年五ヶ月になります。
 その節は皆様に、お見舞いやらたくさんの励ましをいただき、親戚一同厚く御礼申し上げます。
 兄も少しずつ元気を取り戻し、そろそろ退院の日も間近と願っております。これからは、毎日が車椅子生活になります。くじけず、命の尊さを胸に刻み込み、頑張って欲しいと思っております。
 本当に、人間の運命は、明日おもわかりません。実家で一番大切な人が、まさか事故に遭うなんて誰が想像し得たでしょうか。悔やんでも、悔やみきれません。
 私たち一族挙げて柳屋を守っていきたいと思っております。皆様どうかお力添えの程、よろしくお願いいたします。

  さて、私が片野尾を後にしてから早いもので、もう37年になりました。新潟も住めば都で、とても良い所です。が、いつまでたっても「故里・片野尾」が頭からはなれることはありません。海・山・そしてたくさんの自然と、何よりも人情厚い人柄の皆さんに恵まれ育てていただいたことを、何よりも幸せに思っております。ありがとうございました。
 今、私は、保育園で「ゼロちゃん」達と悪戦苦闘の毎日を送っています。すごく神経を使うことも多い中で、あの純真無垢な子供たちに接した時、いやなこと、疲労はすぐ吹き飛んでしまう毎日です。私には、最高の職業だと思っています。
 この職に入って思ったこと。それは、顔が良いから可愛い。そんなこと理屈ではありません。顔が悪かろうが、やんちゃであろうがその子・その子の個性を見て、文句なしに皆、可愛いものだなぁ、と知りました。
 私も、自分の子育てを終えて入った職ですが、もう十余年になりあと定年までどうにか頑張っていきたいと思っております。

  いつも思うこと、故里のことを思うと、心が豊かになります。どうぞこれからも、片野尾の発展と、皆様のご健勝をお祈りし「一本松」を益々長く続けていただけますよう、心から声援をお送りいたします。
 それでは、どうぞ皆様お元気で、いつかまた会える日を楽しみにしています。

 

朱鷺の話題

 

 

 朱鷺 二世誕生 おめでとう

 中国から贈られた朱鷺のヤンヤン(洋洋・雌)とヨウヨウ(友友・雄)の中国ペアから、日本で初めて人工ふ化に成功、人工増殖史上初めて朱鷺のひなが誕生しました。現在、佐渡は言うに及ばず、日本全国朱鷺誕生のうれしいニュースに沸いています。
 今後、多くのひなが誕生し、どじょうもいっぱいいるようになりましたので、いつの日か、また片野尾の山中にその優雅な姿を見せてほしいのは、地区民みんなの願いです。

 

 

 朱鷺・捕まんなやぁ〜のあのころ

                          取材:広報部

 島の各地を追われ、最後に片野尾の「大平山」をねぐらに選んでいた朱鷺を、環境庁の人工増殖・捕獲作戦により、昭和56年1月11日午前11時11分、片野尾の山中において2羽が、同21日に東強清水で2羽が、次の日に吾潟で1羽が、ロケットネットという新兵器で捕獲されました。皆さんもテレビで何度も見たことと思いますので、覚えている方もおいでの事と思いますが、あれから早いもので、もう18年6ヶ月の月日が流れてあの頃、自分の子供のように見守り、育ててきた朱鷺が、また、地区のほとんどの者が、よもや捕まることはない、と思っていただけに、その衝撃はなおさら大きかったことでしょう。
  しかし、あの時捕獲した朱鷺はもう一羽もいません。一羽だけ残っている「キン」は、真野町で、高野さんという方が捕まえて飼育していたものを、朱鷺保護センターにいるほかのものと一緒にしようと、センターに連れてきたものです。
  今回、朱鷺二世誕生を機会に、片野尾と朱鷺について調べ、ひもといてみました。
  村おこしだより第7号でも少し触れましたが、朱鷺を保護するためとして、環境庁は朱鷺の全鳥捕獲を決定し、捕獲を開始しましたが、この捕獲に至るまでに、片野尾では色々な事がありました。

  1. 昭和46年6月・立間山中で巣が発見される。

  2. 昭和54年3〜4月・豊岡と野浦で営巣・産卵が発見される。

  3. 昭和56年1〜2月・片野尾大平山での「ねぐら」が確認される。

 これが、両津市郷土博物館に残っている朱鷺に関する記述です。
 そうです。朱鷺が最後の「ねぐら」とした所が片野尾なのです。それは、朱鷺のために「どじょう」の餌場を作る人、朱鷺が常に安全にえさが食べられるよう「監視」する監視員がいて、そしてそっと身を引き、仕事をやめ山を下りたそうです。こうしてみんなが朱鷺を、わが子のように見守ったので、最後のすみかを片野尾に選んだのだと思いました。
 次に、監視に当たった方、どじょうのえさ場を整備した方々の手記をお願いしました。

 

 

 空に羽ばたけユウユウ

           元監視員  宇治 絹子

 中国の二世こと、朱鷺のユウユウは、知事さんまでが記者会見するほど、世間注目の時の鳥です。
 そのユウユウが、つい先日新聞の中央紙にもカラー写真入りでトップ記事でしたが、羽を広げた姿は私の目に焼きついている朱鷺色への初毛でした。
 本当にきれいだったあの5羽の朱鷺が捕獲されてもう約20年。心配されたとおりその5羽はもうこの世のものではありません。が、朱鷺の習性は人間の及ぶところでなかったことが思い出されます。
 繁殖期の5月頃には、必ず小佐渡の山々に住みどころを求め、餌をあさり、そして大平山の中腹が最後の「ねぐら」でした。
 それも、あたりがうす暗くなるのを待っていたかのように、一目散に飛んできて、まわりを一度確かめるように旋回してから、ねぐらの木に止まったものでした。そして朝は朝で、朝日が昇るのを合図のように、谷地の方向に向かって一斉に飛び立ちました。
 また、常満田の給飼田へどじょうの缶を負い上げたり、佐藤春雄先生を営巣地と思われる森へご案内するなど、いやいやながら引き受けた監視員でしたが、いつの間にか一日に一度「朱鷺」を見ないと落ち着いておれない自分になっていました。
 こんなことで、監視員は10年も続けたでしょうか。
 人間を避けて飛ぶ朱鷺が可愛くなり、共に一生懸命だった市役所の中田さんや磯田さん、そして給飼田に一番熱心だった故・五左ェ門父さんのことも思い出されます。
 これが縁で動物が好きになった私ですが、自然の空を悠々と飛び人間が近づくことを人間が禁止してくれた5羽の「朱鷺」とユウユウを比較するとユウユウは人間監視の的ですし、マスコミに追いまわされるゲージから自然の環境に放たれる日、ユウユウが思う存分、空を羽ばたく日が早く来ることを願っています。

 

 

 朱鷺のエサ場作りをして(談:聞き取り)

           宇治 梅香
           小坂 栄子
           宇治 美代子
        (故)井戸よしえ

 私たちは、市や県をとおして、環境庁から頼まれて、朱鷺のえさとなる「どじょう」を山奥の、あまり人が行かないところにある田んぼを耕して、どじょうを入れ、朱鷺が食べやすいように、常にあたりの草刈りをし、朱鷺が食べてくれるのを祈っていました。
 とじょうの餌場というと簡単なように聞こえるかもしれませんが当時は車も行かず、すべて人力に頼るしかありません。
 まず、春になると草刈りから始まり、次に田耕しを備中くわで耕し、代かきは、大きな石に鋼をつけて引きます。このような作業は、みんなが「いー」で、それぞれの田を仕上げていきました。
 草を刈らないと、どじょうが草むらに隠れ、朱鷺が見つけにくいとの市の担当者の指示で、なるほどと思い行いました。
 一番大変だったことは、どじょうの入っている一斗缶を、山奥まで負い上げることでした。
 特に、冬季に雪が多く積もっている中をこいで山奥まで行くことなど大変なことでした。
 もうひとつ大変だったことは、山奥は水が少なく、田んぼが干せないようにすることでした。
 また、市や県の担当者が時々抜き打ちで検査に来て「草が生えている」とか、「田んぼが少し固くなってきたな」とか文句を言って帰ります。帰った後、次回からは何も指摘されないようにしよう、とみんなで誓い合ったものでした。エサ場へ作業に行くと、時々、朱鷺がエサをついばんでいることがあります。そういう時は、そぉ〜っと帰ることにしていました。また、時々県の方も現地を見に来られることがありました。
 こんなことができたのも、転用田を含め、それだけの費用を出してくれたことと、4人の仲間がスクラムを組んで行ったことが、続けられた原因だと思っています。
 今後の願いは、朱鷺の雛がいっぱい生まれ、再びその姿を大空で見ることができますよう、祈っています。
 朱鷺保護センターの皆さん、一時も目を離せず、本当に毎日大変でしょうが、どうぞ、お体に留意して頑張ってください。
 席さんも、中国とは違う、お子様方を祖国に残したままの生活の中で、本当に大変でしょうが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

寄稿

 

 再び中国を考える 
            宇治 仁(興左ェ門)

 コソボの問題が解決して、ほっとしました。途中まで、泥沼ではないかと思っていたからです。
 NATOの空爆によっては、解決はできないと思ったのです。
 英首相ブレアは正義感のある人で、地上軍を投じて、ユーゴ軍を追い返すことを主張していたのですが、煮えきらないクリントン大統領が、それに反対していたからです。ところが滑稽で頑固な独裁者のミロシェビッチも、さすがにこたえたか、譲歩しませんでした。コソボにいたアルバニア系の住民は約180万人、そのうちの100万近くが銃剣で周辺国に追われました。
 中国は、NATOの空爆に反対しました。傷を持つからです。そして、民族問題が絡むチベットや台湾問題があるからです。
 国際人権規約B規約というのがありますが、中国は昨年の10月に初めてそれに調印しました。それには言論の自由や結社の自由がうたわれています。中国共産党の独裁政権の他に、政党を認める規約です。
 それではというので、有志が中国民主党の結成に動いていたところ、たちまちそのリーダー格の3人を逮捕し、政府に迎合する裁判所は、僅か3時間半の審理で、懲役11年から13年の判決を下してしまいました。
 国際人権規約B規約には、裁判の公正もうたわれています。
 このことによって、それまでクリントン大統領と江沢民の相互訪問によってどうやら築かれていた米中関係がギクシャクしてしまいました。米国は、第一に人権を重んじる国だからです。
 もうひとつ、すねに傷を持つとは、台湾の国のことです。朱鎔基首相が訪米の時に、台湾の武力開放も辞さないといいました。そして対岸にミサイルを盛んに配備しています。しかし、自由と民主の国である台湾が、平和裡に統一されるならいざ知らず、一方的な武力によって殺りくされてよいものでしょうか。
 米国は、先の台湾海峡における中国のミサイル演習の時に、空母を2隻派遣し、「今度武力を持って統一しようとする場合には、干渉せざるを得ない」と言えば良いのです。
 中国は、そのことを大変恐れています。それが、NATO空爆に反対した大きな理由なのです。

 

編集後記

 

  1. 巻頭に、役員の三國屋がお願いしましたように、初めて開催するこの会を、更に、来年もやりたいということになりますように、今年はその試金石にもなりますので、どうぞ多数の方々からお出で下さいますよう、お待ち申し上げています。

  2. スキューバダイビングの受け入れを決めましたので、魚のように海の中を自由に泳いでみたいと、ダイバー教室を開催する計画が第三部会で準備中です。皆さま、竜宮城へ行くような気持ちで、参加しませんか。

  3. 久しぶりに嬉しい、朱鷺二世誕生のニュースでゆかりがある私たちも、本当に嬉しいです。
    それにつけても、今から18年6ヶ月前の朱鷺捕獲作戦の舞台となった当地でしたが、あの頃、環境庁や県の職員がかねご旅館に、捕獲作戦を実施する山階鳥類研究所の職員が村上旅館に投宿していました。地区の人も皆同じ気持ちだったと思いますが、小学生が波除けの雪の上に、素直な気持ちを書いていたのが今でも忘れられません。

       ときはやくにげろ。

       ぜったいつかまるな。

       とうきょうからきたもんはやくかえれ。

    あの時の落胆した様子と、この言葉は生涯忘れられない。

ご意見、ご要望はuzzy@e-sadonet.tvまでお寄せください。

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